現場の教員や生徒が「政治的中立性」を政治教育や学習をするとき、萎縮しないための理解が必要です。「中立」とは「何も教えないこと」ではなく、「特定の主張を押し付けず、多様な見解を公平に提示すること」であるという理解を共有する必要があります。「中立」は「沈黙」ではありません。何も教えないことではありません。ここが誤解されがちな点ですが、政治的中立とは「政治について一切触れないこと」や「無関心であること」ではありません。もし教師が政治や社会問題について一切議論させないことが「中立」であるとすれば、生徒は社会的な批判的思考力を養う機会を奪われてしまいます。
教師自身も自分の個人的な見解を正解として押し付けるのではなく、一つの事象に対して「賛成・反対の両論」や「中立的な視点からの背景の知識」を公平に提示することが求められます。「政治的中立性」が守られているかを見極める指標に関してですが、授業や教育活動が中立的であるかどうかを判断する際には、以下の観点がチェックリストとなります。
・取り上げるテーマは偏っていないか?特定の政党を有利・不利にするような話題ばかりでないか。
・提示する資料は多様か?特定のイデオロギーに基づいた資料だけでなく、複数の立場からの論説が用いられているか。
・教室での発言の自由度は確保されているか?教員が自分の意見と異なる生徒を否定したり、特定の思想への誘導をしたりしていないか。
・プロセス重視か?結論の正しさよりも、生徒が調べ、考え、論理的に構成する過程を評価しているか。
教育基本法第16条1項は、教育の独立性と行政のあり方を定めた条文です。教育が不当な支配を受けずに公正に行われるべきことが規定されています。政治学習や平和学習の取り組みを抑えてはならないのです。残念ながら、世論では今回の事故を通してこうした学習活動を押さえ込むような姿勢が見られます。自由な学習活動を制限しようとするとき「政治的中立性」という錦の旗をふりかざすのはよくありません。
多くの児童生徒の死亡事故は各地で起きています。このたび、文科省が直接同志社国際高校に出向いて調査したのは異例のことです。事故が沖縄の辺野古で起きたこと、そして現実の政治に対する批判を封じるという政治的な意図があるからでしょう。事故の安全管理上の問題をとおして、政治的中立性を盾にし、政治学習に介入しようとする意図は慎まなければならないことです。
朝日、毎日、信濃毎日、東京新聞が社説で、今回の違法という判断に疑問を投げています。その主張は、教育基本法第16条1項の教育の独立性と行政のあり方に照らして文科省の行き過ぎた介入に釘をさしているのです。
従って、現時点では「安全管理の改善要求は妥当性が高いが、教育基本法違反の認定については、どの程度一方的な教育だったのかという具体的事実の検証が不可欠である」と言えそうです。教育現場の自主性と法的な一線の引き方を巡っては、今後も社会的な議論が続くのは歓迎したいところです。


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